ナガタ源平合戦〜1〜

「ナガタ源平合戦

 

 兵庫と大阪をまたいで東西に走る阪神電車阪神の阪は大阪、神は神戸の意である。神戸といえば、海と山に囲まれ、中央区三宮の山側には北野異人館、海側には南京町、そこからもう少し西へと場所を移し、元町の商店街を抜けると見えてくるのは、赤くそそり立つポートタワーである。神戸のシンボルとも言えるそれは、まじまじと見ると黒ずんでボロくなっていることがよく分かるが、青くすこーんと抜けるような空には美しく映える。隣には船のような形をした白い構造物。オブジェにも見えるがれっきとした神戸市立海洋博物館である。また、真っ白で、分厚く切られたかまぼこのような形をした神戸オリエンタルホテルは、太陽の光を燦々と受け、四方を囲む海が反射した光に眩しく輝き、ホテルの持つ由緒正しき格式と、色褪せないその美しさと上品さは、まるで白鳥が浮かんでいるかのようである。

 平清盛の時代に「大輪田泊」なる貿易港として開発されて以来、神戸は古くから外国と通商を行い、洋菓子や神戸プリンをお土産の筆頭にし、「何となくお洒落な神戸」ブランドを強い味方にしてきた。しかしその実、観光客はそれほど寄り付かず、大阪京都奈良と、関西三強、日本屈指の観光地を近場にもつこの兵庫県は、わざわざ宿泊してまで旅行で来るには微妙なポジション、関西圏の住民らが、ちょっとお出かけで足を伸ばす程度の都市である。しかし友達とカフェーでお茶をする程度、昼間一人でぶらつく程度、ゆったりとした簡便ライフを楽しむ程度にはもってこいの場所である。適度な人口と適度な自然の、適度な都会。それが神戸だ。

 ポートタワー付近の広場は前まで寂れており、震災の記念碑がうら寂しく立っているような場所だったように思う(これは僕の子供の頃の記憶である。その傍らの海の、消波ブロックの隙間に潜むフナムシを眺めるのを好むような子供だった)が、近年非常に綺麗に再開発され、「BE KOBE」のオブジェに女子高生やカップルたちが列をなして写真撮影をし、隣のスターバックスでフラペチーノなるものを飲み、もう少し先のumieとモザイクで買い物をするというのが定番になった。阪神電車でそこに行くには、「高速神戸」駅が最も近い。別に僕は、阪神電車の回し者でも広報担当者でもなく、ごく一般の神戸市民だ。ただ僕の目的地はそのもう少し西に行ったところで、地理的状況を読者の皆さんにイメージして貰いやすくするために、こんな風にくどくどと述べているのである。僕の降りる駅は高速神戸駅からもう二つ先に行ったところ、そう、「高速長田」駅である。

 「高速神戸」「高速長田」と駅を二つ並べると、何だかものすごいスピードで両駅がダッシュし、先を争うごとく並走しているような想像をしてしまうが、なんてことはない「神戸高速鉄道」という鉄道会社の名前から由来している。高速長田駅は、神戸市長田区に位置しており、別段小綺麗でもショッピングモールが併設されているでもないちょっとした駅だ。長田区自体は神戸市九区のうちの一つであり、その面積は最小、かつ人口密度は最大であるという。

 グレーがかった白色にオレンジ色の横線の入った電車をここで降り、ホームから階段を上がって改札口へ。改札を出て右に曲がり、地下の居酒屋の前を通ってさらに階段を上がると、やっと地上に出られる。ここまでの道のりだけでもかなりの重労働であり、階段の多さにベビーカーを押しながら困っているお母さんを何度か見かけた。自分も荷物の多い日はひいひい言いながら上がった。

地上に出ると真っ先に目に入るのが、「官幣中社 長田神社」と大きく刻まれた長方形の石碑である。その背後には赤く縁取られた神戸市営地下鉄の出口があるのだが、その「朱」の色と石碑の雰囲気が奇妙にマッチして、ぱっと見霊験あらたかなものであるかのように見えてしまい腹立たしい。しかしここで最も特筆すべきは、出口左手の、これから僕が行く方向にそびえる、馬鹿でかい鳥居である。

 「長田神社前」の看板が鳥居の「二」の部分の間に綺麗におさめられたこの鳥居は、二車線の車道を跨ぐようにして立っており、足と足の間をすいすいと車が通っていく。北に歩いた先にある長田神社の参道であることを示すものであるが、大きい建造物というのは案外目に入らないもので、初めてこの地を訪れた時には「まあ立派な鳥居だなァ」と見上げたものだが、何度も通ると「見上げる」などという労力は払わなくなり、また鳥居だということも忘れ去り存在はないも同然になってしまった。

 さあ、話はまだまだ続く。駅降りて一体どこに向かってるねん、行程説明長いねんと思っているあなた、もう少し我慢をお願いします。鳥居の跨る車道の両サイドには長田商店街があり、神社へ向かう参道に様々なお店が軒を連ねている。和菓子屋さんに金物屋さん、パンにコロッケ、シャッターを下ろした店には政治家の選挙ポスター。昔ながらの商店街の雰囲気である。商店街をまっすぐ通り抜け、屋根のついた部分を抜けると、新湊川が細身の体を投げ出し横たわっている。日差しを浴びる川を横目に、幅広の橋を渡ってさらに北上する。右手にあるグルメシティの入ったビルを超えたあたりに十字路があり、コンビニの手前で左に曲がる。このコンビニは数年前はデイリーヤマザキで、よく昼食を買うのにお世話になっていたが、潰れて今はファミリーマートになっている。この道もまた真っ直ぐ進むが、左右は住宅地になっているので静かに通らなくてはいけない。この一本道の突き当たりまで来ると、もう目的地は近い。商店街に入ってすぐの時点で早々に曲がっていた他の者たちが左手からやって来ているので、彼らと合流し、ここから坂道へと突入する。最後の難所、この微妙に左回りに湾曲した坂をふうふう言いながら登っていくと、「それ」はは突然姿を現す。天高く、見るものを魅了し、何度見ても飽きさせない、単純かつ荘厳な「塔」。二色のグレーが四角い作りの塔を彩り、四つの側面には中央に一本、上から下まで貫くようにガラスがはめ込まれている。塔を中心として設計されたのであろう、横に続く渡り廊下や奥行きのある校舎は完全に調和し、沢山の窓から光が漏れている。そう、この坂の上の美しい建築物こそ僕の大事な青年期の三年間を過ごしたところ、「兵庫県立長田高等学校」である。

 

 大阪府大阪市此花区桜島にある超有名テーマパーク、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン。某ネズミ王国とは一線を画し、お姫様や王子様らが紡ぎ出す華やかな夢というよりも、一攫千金的アメリカンドリームを売っているかのような商業臭を拭いきれない、愛すべきテーマパークである。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンは数年前、英国の超有名魔法ファンタジー小説を題材に、あるエリアを建設した。伏せ字にする必要もないので書かせてもらうと、ハリー・ポッターエリアである。あのエリアに行ったことのある人には、きっと分かるだろう。魔法界へと誘う「タンターン・タタンタータ・ターター」の音楽とともに、針葉樹林の木立を抜け、エリアの入り口に立った時の高揚が。入り口から見た魔法界は、圧巻の一言である。雪のかぶった三角屋根の家群、右手には本物そっくりの黒いSL、遠くに見えるはホグワーツ城。入り口から見える景色は、計算し尽くされていることがはっきりと分かるほど、絵画のように門の枠に綺麗に収まっている。

 「外観はめっちゃ綺麗だけど、中身はおんぼろ」。長田高校の生徒が間違いなく一度は口にした、控えめに言って最低でも一度は耳にしたことのあるセリフがこちらである。中学の時の高校見学で、初めてこの長田高校に訪れた僕は、パッと見のこの校舎に圧倒され、一目惚れした。前述したホグワーツ城を目の前にしたような興奮を、僕は感じてしまったのだ。一体何人の生徒があの外観に騙されたことだろう。この長田高校と魔法界の大きな違いは、相手が外観だけでなく内装も、多大なる予算のもと細部まで作り込まれた芸術品だったことである。いや、そもそも比較対象に持ってくること自体が間違っているに違いない。思い出すに懐かしいあの夏のオープンハイスクールでは、勿論校内見学もあったが、なんというかチームを作って脱出ゲームのようなことをする一日だったため、中身がどうとかには思い至らなかった。配布され家で読んだ学校紹介冊子も、非常に面白くユニークな内容で、僕は一も二もなく長田高校を第一志望に決めたのだった。断じて、その前日に見学に行った王子動物園北の山上にある神戸高校の、死ぬほど傾斜のきつい通称「地獄坂」に屈して、長田を選んだのではないことをここで断言しておこう。

 元来、神戸市の中学生は高校に上がる際、市全体を大雑把に三つの区域に分けた第一学区から第三学区の中の、自分の住んでいる区域の高校に入学することが定められていた。第一学区の国公立トップ校は「地獄坂」付き由緒正しき神戸高校。かの村上春樹の出身校であり、同校を舞台に書かれたと思しき作品の中で、「学校は山の上にあって、その屋上からは町と海とが一望のもとに見渡せた」と表されている。第二学区のトップは兵庫高校。実は長田高校とは目と鼻の先の所に位置し、商店街を抜けた所にある新湊川を東へずっと進んでいくと、兵庫高校にたどり着く。そして第三学区のトップ校が、ここ長田高校である。この高校を説明するなれば、自由の風が吹き荒れすぎて、変人の養成所かと言わんばかりの無法地帯。変人の先輩に憧れ、変人のクラスメイトに囲まれ、自らの変人性を持たないことをあたかもアイデンティティの欠如した人間であるかのようにコンプレックスに思い始め、入学前は常識人だったはずの者が十五年分の価値観を振り棄てることになる。

 しかし、僕は高校見学で、第一学区の神戸高校と、第三学区の長田高校とを訪れた。なぜか。それは、丁度僕らの代から学区統合が始まり、神戸市全域で高校を選び入学することが可能になったためだ。僕らは初代学区統合勢として、意気揚々と、否、高校受験の倍率がいかほどになるか誰にも見当がつかないという多大なる懸念のもと、入学試験へと挑んだのだ。だがその懸念は全くもって無用の長物だったことが分かる。各高校の入試倍率が新聞に掲載されたその日、僕、いや僕らの代の長田生は全員、両手を叩いて飛び回ったに違いない。何がどううまいこと回ったのか、県内でも有数の進学校である長田は0.99という数字を叩き出し、見事に定員割れをした。僕はその日から、ほとんど勉強をしなくなった。

 

 こんな風にぬるっと合格した僕は、三年間をこの見た目だけは整った高校で過ごすことになった。この手記には、僕の高校生活を出来るだけこと細かに書いていきたいと思う。思い返すに、変な三年間だった。いや、アレに巻き込まれたのは高二の間だったから、変な一年間だったというべきか。しかし、薄ぼんやりとして終わった高一の期間も受験勉強で忙しかった高三の期間も、基本的にはあの高校は変だったし不思議な空間だったから、やはり三年間通して変だったのだろう。ということで、この手記には僕の高校生活を様々な思い出とともに、出来るだけこと細かに、また高二のアレを中心に、書いていきたいと思う。

 

 偏差値だけではない自由な校風に憧れて、僕は長田を志し、見事(見事?)合格を果たしたわけであるが、結局のところ僕の人間性は入学後も顕著に変わることはなく、友人とワイワイ騒ぎ、日々部活動に情熱を傾けて肉体の鍛錬に勤しみ、可愛い彼女と登下校するなどということにはならなかった。そんな幻想を抱かなかったかと言えば嘘になるが、如何せん僕は何かに情熱を傾け、人前に出たり目立つ役割を与えられたりということには多大なる精神的ストレスを感じてしまうため、ただただ誰にも迷惑をかけず自分の手の届く範囲の小宇宙で、心の平安と惰眠を貪ることを第一とする日々を送っていた。 

部活動選びなど、まあひどいものだった。爽やかなイメージだしちょっと明るい人間に見られるかな、と昔かじったことのあるバドミントンを候補に入れていたが、かなりハードな部活で夏までラケットを持たせてもらえず筋トレばかりと聞き、速攻で候補リストに二重線を引いて消した。また、中学になかったし清廉硬派なイメージだし、と剣道部にも興味を持ったが、部活動見学で向かうべき部室の場所が分からず、ここかもしれないという剣道場は鍵が閉まっておりしゅるしゅると意欲がしぼんで消えた。今日はいい、帰ろう、と思ってそのまま校門を出た。そんな風にして僕は部活動見学に関して帰らずの人となり、帰宅部生活が定着したのであった。

 クラスに関して言うと、定員割れの結果なのかこれまた校風と言うべきなのか、県下一の賢い高校にしてはその真面目さやお堅さを持ち合わせない、明るくオープンな人間が多いなという印象であった。別段明るさもオープンさも持ち合わせていない僕は、気後れをした訳でもないが、積極的にその輪の中に入っていこうという気持ちも起こらなかった。「有武」という苗字で例年通り出席番号一番を取った僕は、窓際最前列で外の植え込みを眺め春の陽気を感じていた。なんとなく自分と同じ空気を感じたのだろうか、そんな僕にも関心を抱くやつはいるもので、一人の男が無言で俺の隣の席に腰を下ろした。横向きに座ってこっちを正面にしているので、俺も目を向けた。色白でそこそこ背が高く、細身で眼鏡をかけたそいつは、俺がこの長田で最も長い時間をともに過ごすことになった友人・間部である。

「…うす」

「おう」

「有武だよな」

「うん」

「有武はあいつらとは喋んねえの?」

と、教室の後方で集団になっている男子の一群を目で示す。間部は、先ほどそちらの話の輪から抜けてきたようであった。

「んー、まあ自分から話しかけに行かなくても、そのうち喋るタイミングは来るだろ、みたいな」

はーっ、と間部は大きく息を吐いた。

「めっちゃ分かる」

口数が多い訳ではないが、一言一言が結構僕の好きなシュールさと絶妙なセンスを醸し出しているタイプで、かつ割と整った顔立ちであったため女子からもひっそり人気がある男だった。大勢で騒ぐのは好まないらしく、僕も非常に似たものを感じ馬もあったため、彼とよくつるむようになった。

 

こうして、高校生活を送る上での最重要トピックである、僕の部活動選びと友達づくりは早々にして幕を閉じたのである。内心はどうあれ表面上は僕は目立たず騒がずおとなしく、相応に心の平安を獲得することが出来たのであった。

ここで一つ付け加えておくが、僕と同じ中学出身の者はこの学年にはいなかった。僕は灘区に住んでいるため旧第一学区の民なのだが、やはり周りは家から近いところに通う者ばかりで、わざわざ第三学区を選ぶ人は少なかった。誰も自分のことを知る人がいないと言う状況は、ある意味解放的で、僕は自由を感じて嬉しかったのだが、そのうちそうとも言っていられない事実が判明する。長田高校において、僕は同中の人が一人もいないというだけではなかった。「旧第一学区から」長田高校に来た者は、僕一人だけであった。大きい人口を抱える神戸市、中でも中心部の第一学区は一番人が多いというのに、その中で長田へ行く者は、僕の他に誰一人として存在しなかったのである。

 

「海のある方が南、山のある方が北」。これは神戸市の子供が方角を教えられる際に使われる表現だ。海と山に囲まれた神戸だからこその教え方であろうが、悲しいかな、僕は「テストの点は良いアホ」という子供で、小さい頃からそう教えられてきたものだから、日本全国、否、万国共通、海は南で山は北なのだと思い込んでしまった。小四あたりから、「ぼんち」というところだったら方角はどうなるんだろう、などと首を捻っていたが、そもそも海山で方角を測ろうというのがこの地域限定だということを知り、愕然とした。このようにして、僕の方向感覚は養われることなく今に至る。

この北の象徴である山というのが、神戸の西から東にかけて横たわる六甲山である。神戸市民にとっては小学生の頃から遠足やらなんやで慣れ親しんだ山であり、布引の滝やロープウェー、ハーブ園など見所もそこそこある。そして、入学して早々生徒が駆り出されるのが、長田高校から宝塚までの山道を分割し三年かけて歩く「六甲縦走」だ。

高校生にもなって山になんて登らんでも、とは大半の生徒が思ったことであろうが、クラスの親睦を深め人間関係を構築するという目的の行事であるし、新学期始まった直後にサボろうという気は起こらない。当日はあいにくの晴れであり、粛々とジャージにリュックを背負い、男子が前、女子が後ろの出席番号順で一列になりスタートした。一年時の六甲縦走は、長田高校から出発して高取山、鉢伏山を経由し、須磨浦公園に至るというルートである。住宅地をしばらく行くと、途中から次第に道の傾斜が急になり、気づけば山が目の前にやってきている。

一列とは名ばかり、徐々にその隊形は崩れ始め、各自が好き勝手に移動し始める。例に漏れず、間部は後方でわじゃわじゃ話していたようであるが、早い段階で僕の隣にまでやって来た。「間部」の位置から「有武」までわざわざやって来るなんて、相当僕のことが好きなのかもしれないなコイツ、と思ったが、先生の後ろで一人黙々と歩くのなんてまっぴらごめんなので、ありがたく彼を受け入れ、心の中で抱き締めた。

山道というのは、上りは上りで太ももが痛いだの、早く下りたいだの不平をいうものだが、下りに差し掛かればそれはそれで、つま先が痛いだのまだ上りの方がましだっただの不平を言う。だが終わってみれば、「俺は今日山に登った」という達成感と、アクティブかつアウトドアな一日を過ごした満足感を得られる。また、今日はもう疲れただろうしご飯食べてゆっくりしたら寝なさい、という温かき勉強への免罪符をも貰える。山というのはそういうものである。山も、可哀想なことである。

実際、六甲縦走はなかなかハードな行事であった。春の瑞々しい新緑や、見知らぬ小鳥のさえずり、肌に染み入るような山独特の湿気など、普段味わえない自然を楽しむことが出来る一日であるが、受験期をろくに運動もしないで過ごし(途中で勉強はやめたもののゲームにハマった)、部活にも入らずじまいの僕には周りの景色を味わう余裕もない。湿っぽい腐葉土に覆われた道を一歩一歩進み、岩に足をかけ、前を行く二組と離れすぎないテンポ感を意識する。初めは僕の前にいた担任の野島も、後ろのうるさい奴らや女子たちの様子を見るため後方にまわり、僕と間部が三組の先頭を切って歩いていたのである。間部は次第に登るスピードが遅くなっていることが不安ならしく、

「ほら、かなり二組が前に行ってる。さっきより離されてるぞ」

などと言い、余裕がある訳ではないため僕も、

「しょうがないよ、これ以上速く歩くと持たない。体力の配分を間違えたくはない」

と言い返す。

「たいしてやる気もないし道も把握してない俺らが先陣なんて、いいんかな」

「これが出席番号というやつさ。それにお前が自分から僕のところに来たんだろう」

「初めは野島が前にいたからなあ。これがア行の宿命か」

「間部はいいな、有武という名字が一生背負う十字架がないんだから」

 

 山登りの何が辛いかといえば、それはやはり目的地との距離感を把握できないことであろう。早く休憩したいという思いはスタートして十分も経たないうちに抱き始めるのだが、待ちに待った昼ご飯もそれが何時頃どの辺りで設けられるのかを知らせられないために、その時間は突如訪れる。一年時の六甲縦走のお弁当タイムは、横尾山、栂尾(とがのお)山を抜け、高倉台を越えたところにある「おらが茶屋」にて設けられていた。おらが茶屋という字面から、まるで木造の小屋で笑顔の素敵な老夫婦がお茶とお菓子でも出してくれそうな場所を想像してしまうが、その実、おらが茶屋はロープウェー乗り場と見紛うような白いコンクリ造の狭い展望台であった。一階が公衆トイレ、二階が喫茶、屋上が展望台という建物なのだが、なんせ広いところではない。我々は、我々より前を歩いていた一組二組との席取り合戦に負け、山風も強く出来れば屋内で食べたかったという思いを抱きながら、茶屋の下にある広場にて弁当の蓋を開いたのである。

 

 おらが茶屋からゴールの須磨浦公園までは近い。山道をずんずん下って行くと、徐々に草木が整備されたものへと変わっていき、公園の敷地内へ入る。

 

 須磨浦公園では三月に「敦盛祭」なるものが催され、また四月上旬には夜桜のライトアップが人を呼んでいる。その桜が「敦盛桜」の名で親しまれていることからも、須磨浦公園が「敦盛」を全面にプッシュして地域を盛り上げようとしていることは明白であるが、その由縁はかの平家・清盛が甥、平敦盛の没した地であり、敦盛の塚も公園の敷地内にあることに端を発している。

 遠く平安の世の中で、平氏と源氏が国を二分し相争ったという源平合戦。笛の名手であり、当時十七の若者であったという敦盛は、この須磨での一ノ谷の戦いに参加し、敵将熊谷直実に討たれその短い生涯を閉じた。その死に方は潔く、若き美貌の少年の死は平家物語の名場面の一つとなり、文楽や歌舞伎の題材にもなった。

 一ノ谷の戦いは、源平合戦の勝敗を分けた戦いとして知られている。ここでしばし、源平合戦について話をしよう。

 そもそも源平合戦とは、治承四年(一一八〇)から元歴二年(一一八五)までの足掛け六年に渡る大規模な内乱であり、学術的には治承・寿永の乱と呼ばれている。武士階級出身の平清盛太政大臣として国のトップに立ち、平家一族は揃い揃って高位高官、自らを生まれながらの貴族とでも言わんばかりの増長した政治を行った。「平氏じゃなければ人じゃねえ」とは誰が言ったか知らないが、千年の時を経て現代の我々にも伝わると分かっていたなら、間違いなく口を慎んだことだろう。

 当然の如く平氏に対する反感は高まり、その最中の治承四年、清盛が自分の都合に合わなくなったと時の法王・後白河を幽閉し、孫の安徳天皇を位につけた。流石にもう見て見ぬ振りはできないと源氏・源頼政平氏打倒の声をあげ、皇子・以仁王の令旨が諸国を駆け巡った。これに応じて、園城寺興福寺の僧兵、伊豆に流されていた源頼朝信濃木曽谷にいた義仲をはじめ各国の武士団が挙兵し、内乱は全国へと広がったのである。