ナガタ源平合戦〜6〜

扉が開いた。その隙間から半身で飛び出し、誰にも自分の前は歩かせない、と鬼のような形相で駅のホームを駆け抜けた。

 

  ○

 

中間テスト二日目、僕は目を血走らせて高速長田駅へと向かう電車に乗っていた。

直前のテスト遅刻描写を受け多大なるデジャヴを感じる方は多いと思うが、これはコピペでも、バグでも、不当な操作でもない。このアナログな手記にそんなものは存在しない。この急な展開に何が介在しているかというと、あくまで時間の経過である。今この瞬間に、見事なタイムワープがこの手記中で行われたのだ。先ほどの「中間テスト二日目」は一学期の話、今回の「中間テスト二日目」は、二学期の話である。あくまでそのつもりで僕の話について来て欲しい。

「二学期の」中間テスト二日目、僕は多大なるデジャヴを感じながら、自動扉の前でいつでも飛び出せる準備をして立っていた。数ヶ月前におかした失敗から何も学習していない自分が恨めしい。昨日のことのように、あの学校まで続く坂道のダッシュを思い出す。テストが始まって五分、汗をかき、風に煽られボロボロの姿で教室に入って来た僕を憐れみの目で見た教師とクラスメイト、そしてニヤリと笑う間部。あんな思いはもう二度とごめんだと思っていたのに、今日の遅刻である。走るのは諦め、何事もない涼やかな顔で登場しようかという思いに駆られてしまう。

ああとりあえずは急ぐのだ、と気持ちを切り替え、鞄からパスケースを取り出す。真っ暗な地下のトンネルを抜け、そのうち駅の明かりがガラスに反射し始めた。プシューと停車したのち、「高速長田高速長田です」と扉が開いた。前回と同様、誰よりも早く駅の階段を駆け上がる。スピードはそのままに改札を通り抜けようとしたところで、はたと気づいた。さっきまで手に持っていたはずのパスケースがない。嘘だろ、持っていたはずなのに、とポケットを探るも見当たらず、落としたかと後ろを振り返ると、電車を降りてきたサラリーマンたちが改札前にやって来ており、その群衆の足足で床が見えない。焦りに焦った僕であったが、改札の前で止まっては邪魔になるので、一旦壁際に退散した。人混みが目の前を交差し、改札へと流れ込んでいく。壮観だなとも言っていられず、頭の中でどこで落としたのか見当付ける。階段を走って上がった時に、手からすっぽ抜けたという可能性が高そうだ。早く、早くみんな駅から出て行ってくれ、と思いながらも、「もうテスト終わったわ」という諦めの気持ちが湧き上がってくる。

おおよそ人の波が去ったので、僕は階段へ向けて急いだ。誰もいない階段の上から全体を見下ろすも、黄緑のパスケースはありそうに無い。降りるか、と一段足を降ろしかけたとき、

「あの」

と後ろから声が掛けられた。

振り返ると、一人の女の子が立ってこちらを見つめていた。その手には黄緑のパスケースがある。

「あの、これ探していらっしゃるんですか」

声が遅れて聞こえて来た。脳に伝わるまでに時間がかかった。その問いかけに返事をし、彼女がにっこり笑って「良かった」と言ったとき、僕はその人をまるで女神のような人だと思った。笑った顔を直視できず、目線をそらした。服装は白のブラウスにギンガムチェックのパンツ、カーディガンを羽織って上品にまとめられている。下されたこげ茶の髪は長くサラサラであり、白い顔は薄めだが整っていて、申し分のない美人である。感じの良さ、人当たりの柔らかそうな柔和な表情は、性格の良さをそのまま表しており、その雰囲気に一瞬飲み込まれそうになる。

我に返り、自分が遅刻途中だということを思い出し、「ありがとうございました」と言って改札へ走り出した。後ろで彼女は僕を見ているだろうかと思うと、背負っているリュックがガサガサと揺れているのがやけに気になった。改札を抜け、最後にもう一度彼女の顔を拝んでおこうと振り返ると、今から定期を出そうという彼女と目が合った。

「テスト、頑張ってね」

その言葉に思わず、

「あなたは走らないんですか」

と返すと、

「私のテストは一時間後から。早めに来たの」

そう告げ、ほら遅れちゃうよとにっこり笑って手を振った彼女に、名残を惜しみつつ背を向け踵を返した。

 

  ○

 

毎年二学期の終業式前日には、文化部発表会なるイベントが開催される。文化祭ほど高校全体で盛り上がる行事ではないものの、数ある文化部たちが半年間の成果を皆に見て貰える一日だ。講堂では様々なパフォーマンスが順繰りに行われ、教室でも展示や菓子の販売がなされる。

 

 依然として普段との代わり映えもなく、僕と間部は二人並んで文化部発表会を回ることにした。どこから向かおうかと適当に歩いていると、茶華道部の受付が目に入った。どうやら、三階の奥の部室で茶華道部のお点前に参加できるという。文化祭のような、お客の回転率を高くした喫茶店のような形態とは異なり、完全に茶室を模した部屋でのお点前であるらしい。人数制限があり、一回あたり生徒が十人ほどしか入れないらしいので、十二時と開始時間が書かれた整理券を取り、一旦その場を離れた。

 棟を移動し、教室の展示に目を通す。工夫が凝らされたそれらは、細かいところまで拘られていて、じっくり見れば見るほど面白い。しばらく眺めたのち、講堂のパフォーマンスを見ようという流れになった。ちょうどやっているのは吹奏楽部で、入るとクリスマスらしき仮装をした部員たちが、段になっているステージにずらりと並びひしめいている。軽快なクリスマスソングは馴染みのものばかりで、身を任せていればすぐに時間は経っていく。なかなか上手いなと一息つき、ふと時計を見ると十二時が迫っていた。

「あ、やべ、お抹茶始まるぞ」

の声を皮切りに、一目散に三階へ向かうべく講堂を飛び出した。

 

 十二時数分前には着いたものの、前の回が押しているとのことで、控え室で十分ほど待たされた。オレンジの光を放つストーブを眺めながら、手をかざす。十二月の校舎はかなり寒いのだが、こうして締め切られた室内でストーブのそばに座っていると、すぐに体が熱くなってきた。そろそろかなと顔を上げると、ではどうぞと女の子に声を掛けられた。

 静かである。間部とともに通された茶室は、「お喋り」のような軽薄な行為は許されないほどに静まりかえり、音を立てれば即刻首でも飛びそうな雰囲気であった。その回のお茶会参加者十名が、壁沿いに並べられた座布団の上に正座で座る。僕と間部の両隣には三人組と二人組の女の子グループ、後者の横には普段はうるさいであろう三人組の男子が座っている。彼らですら神妙にこの場の調和を乱さないよう懸命に努めている程なので、静かさには定評ある僕も、緊張で肩が強張っていた。

 その重厚な空気を解放するかのように、茶室の左手の壁、中央付近の襖がするすると開いた。そこには、長田の冬の標準服、紺色のセーラーに身をつつんだ女の子が正座をして構えており、そのまま深く頭を下げた。そして彼女が面を上げた瞬間、僕は動揺を抑えきれず、身体をよじらせ間部に肘打ちを喰らわせてしまった。静かな茶室で「うっ」と声を上げてしまった彼が、恨むような目でこちらを見ていることは分かったが、その時の僕に間部を眼中に入れる余裕はなかった。立ち上がり、静々と茶室を横切って歩くその姿に、僕は呆然として見入った。彼女こそ十月の中間テスト遅刻寸前に定期を拾ってくれた恩人であり、その美しさに見とれた人であり、その日以来二ヶ月、一日たりとも思い返さなかったことはない「彼女」であった。あの時下ろしていた髪は低めの位置でくくられ、またその表情は引き締まっている。先日とは全く異なる彼女の雰囲気に、再び脳天を貫かれたような気がした。

 彼女は部屋の右隅にある炉まで進み、膝を折って座った。お点前の始まりである。彼女に続いて入ってきた女子が、「日々是吉日」などの茶道用語や茶器、お菓子の説明などをする。彼女はあくまで無言で、炉からお湯を柄杓ですくったり、シャカシャカと茶筅で抹茶をこなしたりしていた。

再び相見えることの出来た喜びに、僕の心は踊り、胸の高鳴りは心機能を駄目にしてしまうのではと思われるほどであったが、彼女の流れるようなお点前ぶりに水をさしてはいけないと必死で自分を抑え込んだ。口に入れた砂糖たっぷりの和菓子が、どうも歯に沁みるように感じた。

 

畳が敷き詰められ襖で仕切られた茶室、そこで静かに、彼女に茶を点ててもらう。僕は茶室を出た後、恍惚とした気分に浸りきり、ぼうっとなってしまった。彼女の醸し出すゆったりとした時間に包まれた和の空間。柄杓で釜のお湯を掬い、こぽこぽと水音を奏でるその後ろ姿。こんな形で再会するなんて、嗚呼もしかして僕と彼女の間には強い縁があるのかもしれない、と思っていると、

「縁があるのかな」

と間部が言った。僕は頭の中の妄想が口からダダ漏れしていたのかと思い、「え」と言うと、

「兄弟だしやっぱり縁があるのかな。文化祭でもお茶運んできたし、今回のお茶立ても姉ちゃんだし。こわ」

と返された。

 僕が運命を感じた人は、間部の実の姉だったのである。

 

   ○

 

知れば知るほど、間部花梨という人は魅力的だった。美しく聡明で、非の打ち所のない人だった。思えば、初めて彼女と会った茶華道部のお点前でも、(愚かしくも間部に気を取られてしまったが)間違いなく彼女の浴衣姿は凛として気品があったように思うし、男装コンテストで優勝など、元々の容姿の端麗さが窺われる。また、聞けば学年でも有数の才女であり、優秀な成績で皆から一目置かれているらしい。幼少期から続けているという合気道では県大会に進んだことがあるだとか、運動会でのリレーでは逆転一位を収めたとか、彼女のマルチ伝説は奇術のように「あっちから出てきた、こっちから出てきた」と後を絶たない。つくづく間部の姉であることが悔やまれる。そして、自分が彼女と何ら釣り合わない、至って特筆することもない人間であることが悲しくなった。

 

僕は日がな一日、飽きもせずに彼女のことを考えた。授業中も上の空で、出来るだけさりげなく間部から聞き出した情報をもとに、妄想を繰り広げていた。

僕は間部に、彼女への想いを打ち明けることはなかった。自分の家族に友人が想いを寄せているなどという状況は、間部にとっても気詰まりだろうし、自分と間部の間に変な下心があるように受け取られるのも嫌だった。間部は、僕の気持ちに薄々気付いていたかも知れない。「さりげなく」彼女について聞き出そうとしていることにも、感づいていた可能性はある。だが間部はそんなことはおくびにも出さず、普通に僕と接してくれた。僕も、何事もないかのように普通に接した。彼女が間部の姉であると言う事実に、目を瞑りたかったというのも正直なところである。

 

一体どうすれば彼女とお近づきになれるだろうか。部活にも入っていない、塾にも行っていない、バイトをしている訳でもないという「住所不定無職」のような高一である。受験に焦らされる時期でもないため、とにかく暇を持て余していた。そんな男が恋に落ちたりなんぞすれば、全ての時間を物思いに費やすことなど至極真っ当な流れである。

物思いとは自分の内面との対話であり、脳内で一問一答を続けていると、急速に世界は狭くなっていく。その過程で世に蔓延る黒歴史の根源、つまり「どうかしている」ようなアイデアが浮かび上がってくるのである。身悶えするような記憶、それは自分の考え付いたことであり、自分で決定したことであり、自分が行動したことである。そして恋に落ち、「どうかしていた」僕は、もちろん「どうかしている」思いつきをする。それこそ、その思いつきこそ、「新聞委員会に入る」であった。勿論「彼女とお近づきになるために」である。

そして、将来黒歴史になりそうな思いつきに限って、普段は見せない行動力を発揮してしまったりするものである。結論僕は思いついて早々、顧問に話をつけに行ったのだが、今にして思えば、この行動力は本当に僕の指針に基づいてのものだったのか、それとも予定調和の出来事だったのか、それを思うとわだかまるような、なんとなく妙な気持ちになってしまうのである。

 

一体僕はいかなる思考回路を経由して、この結論に至ったのか。そこには三段跳のような論理の飛躍が存在している。彼女に近づくためには、まずその視界に入るポジションを獲得しなければならない。学年が一つ上のため、同じクラスになるようなことは万に一つもなく、もちろん普段すれ違うということもない。そこで考えられるのが、部活動だ。彼女と同じ部に入ってしまいさえすれば、彼女の近くで同じ空気が吸え、「ここ、分からないので教えてください先輩」などという風に非常に自然に話ができる。嗚呼素晴らしき哉、と夢想するも、彼女は女の園茶華道部の住人なので無残にもその夢は潰える。致し方ない、さあどうしようかというところで登場するのが、新聞委員会だ。その見た目だけでなく、マルチな能力で学内を無双している彼女のことである、きっとこの先も何かしら人目を引く華々しい活躍を見せることだろう。したらば、「取材」という名目のもと彼女に話しかけに行くきっかけを掴み、教室に行ったり二人きりで話したり、そこから連絡先の交換や諸々のお約束…。夕焼けの紅い光が教室に斜めに差し込む中、僕と彼女は向かい合って腰掛け、静かな時間の流れに身を任せつつ二人は微笑み合う。彼女の勇姿を記事にするべく僕はその声に耳を傾ける。

妄想は途切れることはない。

途切れることがなかった故に、「彼女が偉業を成し遂げ、その取材に行く」という来たるべき一瞬のためだけに、僕は膨大な自由の時間を犠牲にしたのだった。