ナガタ源平合戦〜2〜

 

 無念にも頼政以仁王の挙兵は平氏の軍勢に敗北を喫し、またその三ヶ月後の石橋山の戦いでも、源頼朝率いる源氏は大庭景親らに敗れてしまう。苦戦を強いられた源氏であるが、この風向きは相手方大大将、平清盛の死により変化していく。

 強力な指導者を失ったことや畿内・西国を中心とする飢饉で平氏の基盤は弱体化し、倶利伽羅峠の戦い源義仲に破れると、平氏安徳天皇を奉じて西国に下った。これがいわゆる「都落ち」である。ここで平氏の去った京を我が物顔で闊歩するは義仲、欲を出して天皇を操ろうとするその傲岸さは、頼朝の不興を買った。頼朝は陸奥にいた弟・義経を呼び寄せて義仲を討たせ、その勢いのままに福原での一の谷の戦いに突入させる。

 源氏の中での内紛を好機に、平氏は西国で勢力を立て直していた。力を蓄え、都と目と鼻の先である摂津福原まで帰してきた平氏と、義仲を討ち乗りに乗った義経・範頼率いる源氏の戦いであるのだから、一ノ谷の戦いはやはり源平の争いにおいて天下を分けた要石的戦いであったと言えよう。

  

 一体、一ノ谷の戦いというのはどれほど壮絶なものであっただろうか。僕は須磨の海を眺めながら、遥か昔の武士郎党たちに思いを馳せる。ムッとする潮の匂い、足元の波に打ち上げられた海藻。波打ち際では三組の他のメンバー二十数人が、裸足を浅瀬に浸し楽しそうに笑っている。僕と間部は、それを遠巻きに眺めていた。

須磨浦公園まで辿り着いた我々は、六甲縦走を終え何の団結感を漲らせたのか、クラス皆で海岸まで行こうという空気になり東へ移動した。線路に沿って歩いていくと、須磨海岸と書かれた看板が出ており、右手には線路下をくぐるトンネルが続いていた。なぜか分からないが、ここでも僕と間部は先頭を歩いていた。通路を抜けると、遠くまで続く細かい砂の海が僕らを迎え、その先には静かな本物の海が開けていた。

 靴を脱ぎ海水に足を浸すと、冷たくて気持ちがいい。そんなことは百も承知であり、自らもその快楽に触れてみたいとは思うが、僕たちはいつその無邪気な衝動を忘れてしまったのだろう。塩水を洗い流す水道や、そもそも足を拭くタオルがないこと、サンダルではなく靴下履きのスニーカーであること…。バシャバシャとしぶきを上げて浅瀬を駆け、砂上を転げ回るクラスメイトの姿を見ていると、後を考えずにはいられない理性が僕を面白味のない人生に追いやっているのだなあと感じずにはいられない。

「間部、有武。お前らは入んねえの?」

と、クラスの中でも明るく目立つ方の、志田という男が声をかけてきた。もしや理性を封じ感情を解き放ついい機会が来たのかもしれないと心が揺らいだが、

「俺、脚の指の間に砂入るの嫌いなんだよね」

と平然とした顔で隣にいた間部が返したので、必然的に僕が海辺をエンジョイする可能性は失われた。「何て言ってた?」と女子たちに問われ、「あいつら、足の指に砂入んの嫌なんだって」と志田が答えるのが、潮風に乗って聞こえてきた。

 

 生田口、夢野口、一の谷と布陣を敷いた平家方。大将宗盛と安徳天皇海上に船で控え、平安京から追討に来た源氏軍を迎え撃つ。結果この戦いは平氏側の壊滅大敗に終わるのだが、それは敵の奇襲に負うところが大きい。

この奇襲の土壌を作り上げ「日本国一の大天狗」と呼ばれたのは、なんと当時の法皇である後白河だ。天皇上皇法皇というと、どの時代においても権力者の操り人形になっているイメージがあるが、彼は違う。大天狗の呼び名の通り、彼はこの戦いにおいて、裏でメチャクチャ暗躍していたのだ。「和解したいから戦いは一旦ストップしといてな、源氏にも言うてあるから」とのデタラメ文書を送りつけておいて、その翌日には東に範頼、北に安田義定、西に義経の三方から挟み撃ち。天狗の鼻も高々というところであっただろう。

この時の義経による奇襲が、馬で断崖絶壁を駆け下り背後から襲撃するという、あの有名な「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」である。これにより一進一退だった戦局は一気に源氏に傾き、北も東も防衛線を突破されたことから平氏勢は大パニック。事ここに至り、ついに大敗北が確定した。逃げ出した武士達が向かった海上は、その血で赤く染まったという。

 

今となっては彼らの血も大海に消散し、僕の目の前には青々とした姿で須磨の綿津見が広がっている。皆から少し離れた位置にあった小さな埠頭に立って眺めていると、日も暮れてきたしと解散の動きになった。各々帰路に着いたが、裸足になっていた皆がどうやって足を洗ったのか、僕は知らない。

 

 

 五月半ばの金曜土曜、長田では総力を挙げてのビッグイベントである文化祭が行われる。

 

 

あくまで僕の個人的な主観であるが、長田において目立つ、影響力を持つ、なんとなく面子の顔が校内に知れているという集団がいくつかある。ある者は完全なる悪意を持って「我が物顔で歩いている」「牛耳っている」と捻くれた言い方をするが、よほどキラキラした学生生活を送っている人間に対しての妬み嫉みが強いのだろう。繰り返しになるが、「あくまで」「僕の」「個人的な」「主観」でいくと、それは「生徒会」「文化祭スタッフ」「ダン部」が挙げられると思う。

生徒会とは生徒の代表であるため、人前に立つことも多く当然顔が割れている。またダン部とはダンス部の通称であり、「ナガタダンスクラブ(多分)」からNDCとも略される。こちらもやはり人前に立つことが多く目立つのだが、彼らに関しては一旦おいておこう。後々言及するかもしれないし、しないかもしれない。

僕がここで取り上げておきたいのは、そう、「文化祭スタッフ」である。本当のところを言うと、僕は初め、彼らのことを非常に恐れていた。

 

入学した当初から、昼休みや放課後になると中庭に大きな布を敷き、ペンキの缶をそこここに置いて色塗り作業をする集団が見受けられた。その布とは来たる文化祭において、中庭の三面(二面?忘れた)を飾る垂れ幕なのだが、何をしているのか僕には正直分からなかった。だが、その作業をしている集団こそ「文化祭スタッフ」の連中であった。

青春漫画に出てくるようなハイレベルな文化祭は長田生の誇りであるが、その表と裏を縦横無尽に駆けずり回り、持て余す若さと力を二日間のお祭りのために振り絞るのが、彼ら文化祭スタッフである。制服着用義務のない長田高校において、人為的かそうでないのかは知らないが、ペンキのついた彼らの揃いのつなぎは多くの者の羨望の的であったに違いない。

勿論彼らは一年生メンバーの募集もしていたが、「入りたい人はこちらのアカウントに連絡してね!」の謳い文句も、ツイッターをやっていない僕にとっては怖れの対象でしかなく、また全生徒に開放されているようで、明らかに見て取れる仲間内での団結感、その閉塞性にも恐怖を感じていた。早々に部活動見学を放棄した僕にとっては、わいわいする彼らの脇を通り帰宅することに何らかの負い目を感じ、その気持ちがそのままトラウマへと姿を変えたのかもしれない。